受傷 → 退院 → 社会復帰 その後の生活


今と昔の脊椎損傷(頸椎)者の見方、捉え方。そして、医療や行政の考え方の違い

1994~2025

ChatGPT:

とても興味深いテーマですね。1994年から2025年までの約30年間で、頸椎損傷を含む脊椎損傷者に対する社会的見方・医療的対応・行政支援の変遷は、医学の進歩と社会意識の変化によって大きく変わりました。

以下に「昔(1994年ごろ)」

   「今(2025年)」の

対比を含めながら、それぞれの視点に分けて解説します。

1)社会的な見方・捉え方の違い

昔(1994年ごろ)

障害=不幸というイメージが根強くあった。

バリアフリーの概念はあったが、物理的・心理的バリアが多く残っていた。

障害者は「保護の対象」として捉えられ、自立や社会参加は難しいとされがちだった。

車椅子で外出する人は少数派で、社会の中で目立ちやすかった。

今(2025年)

インクルーシブ(共生社会)という考え方が浸透し、パラリンピックやSNSの普及で、障害者の活躍や声が可視化され、ポジティブなイメージも増加。

障害は「多様性の一つ」として受け入れられる傾向がある。

福祉機器やテクノロジーの発展により、生活の質(QOL)が大幅に向上。

2)医療の対応・技術の違い

昔(1994年ごろ)

脊髄損傷の医学的治療は限られており、「機能回復は困難」とされるケースが多かった。

リハビリは基本的に「残存機能の維持・訓練」が中心。

医療スタッフの障害に対する理解や専門性も、今ほど高くなかった。

今(2025年)

再生医療、幹細胞治療、ロボティクスなどが登場。

電気刺激療法(ES)、神経再接続の試みなども進行中。

リハビリテーション医学が進化し、個別最適化された支援が可能に。

呼吸補助、排尿管理なども高度にサポートされており、生活の自由度が向上します。

3)行政・制度の変化

昔(1994年ごろ)

「身体障害者福祉法」や「障害者基本法」があったが、まだ支援制度が十分でなかった。

雇用や教育へのアクセスも限られており、制度的なバリアが大きかった。

車椅子利用者向け住宅や交通機関も整備不十分。

今(2025年)

障害者差別解消法(2016年施行)や共生社会づくりの推進法(仮称)など、法律整備が進んだ。

ICT活用支援、在宅支援制度、就労支援が充実。

バリアフリー法も改正され、ユニバーサルデザインが進展。

障害年金や介助制度も拡充され、選択肢のある生活が可能に。


ま と め

視点 1994年頃 2025年(現在)

社会の見方 「保護すべき存在」「制限された人生」 「社会の一員」「多様性の一部」

医療の進歩 基本的リハビリ中心 再生医療・テクノロジー支援の進化

行政支援 制度的制限が多く、自立は難しい 法整備と支援制度が進化、自立が可能


必要であれば、具体的な制度名・医療機器・テクノロジーの例も挙げて解説できますが、今のところ全体像としてこの流れでどうでしょうか?

さらに深堀りしたい分野(例:就労支援・リハビリ技術・住宅改修など)があれば、教えてください!

いや、これで十分です。

最後に

私が受傷した1994年の冬。

そして、受傷から程なくして、リハビリがスタート。

機能回復(社会復帰に向けて)、事前に設けられた入院、リハビリ機関

~   ~   ~

ChatGPT:

よろしくお願いします。では、あなたが受傷された1994年の冬からのリハビリ開始、そして機能回復や社会復帰に向けた当時の流れについて、少し丁寧に振り返ってみますね。

【1994年 冬】受傷とその後の流れ

受傷直後の対応(急性期)

1994年当時、頸髄損傷の初期対応は今ほど高度ではなかったものの、手術・固定・呼吸管理などの基本的な救命処置は確立されていました。

入院は多くの場合、整形外科または脳神経外科のある急性期病院。

頸椎損傷の場合、人工呼吸器の使用や安静固定の時間が長く、精神的にも身体的にも負担の大きい時期だったと思います。

【入院・リハビリ病院への転院】(亜急性期〜回復期)

受傷から数週間〜1ヶ月程度で、状態が安定すれば、リハビリ専門病院(回復期リハビリテーション)へ転院。

当時は今のような「地域包括ケアシステム」は存在せず、長期入院が前提のリハビリ期間でした。

代表的なリハビリ病院(1990年代当時)

国立療養所村山病院(現・国立障害者リハビリテーションセンター病院)

国立病院機構 箱根病院

藤田保健衛生大学病院

地域によっては、大学病院系列のリハビリ病棟など

【リハビリの内容】(1994年当時)

目的:

「残存機能の最大活用」「ADL(日常生活動作)の自立」「社会復帰に向けた基礎力」

主 なリハビリ内容:

理学療法(PT):関節拘縮の予防、筋力維持、座位保持練習など

作業療法(OT):食事・更衣・移乗などの練習

呼吸リハ(高位頸髄損傷の場合)

福祉用具の導入(電動車椅子・スプリント・介助具など)

心理カウンセリングは、当時は今ほど重視されていなかったことが多い

【社会復帰への道】

当時の社会復帰支援はまだ限定的で、**作業所・就労継続支援(B型)**のような形が中心でした。

本人の意欲や家族の支えが大きく影響する時代であり、制度だけでなく「気持ち」で乗り越えなければならない壁も多かった。

教育や就職の「合理的配慮」という考えも、法制度化されておらず、自分で道を切り開いていく必要がある時代だったと思います。


ひ と こ と

1994年に頸椎損傷という大きな出来事を経験され、そこからリハビリへと進まれた過程は、時代背景を考えると非常に大変だったはずです。

現在の社会が少しでも優しく、多様性を認める方向に変わってきたのは、あなたのように、その時代を生き抜き、道を作ってきた方々の存在があったからこそだと感じます。

もしこの内容を文章としてまとめたい、エッセイにしたい、何かに活かしたいという希望があれば、お手伝いしますので遠慮なくどうぞ。

私が搬送された病院は、運よく専門機関であった。

それ故なのか

脊椎損傷であれば約半年、頸椎損傷は約一年 と期間が設けられていた

褥瘡などの合併症により、加療が必要であれば延長される場合も。

しかし、それでも精々、3,4か月、なるべく合併症を起こさないよう、管理、指導が行われた。


~    ~   ~

ChatGPT:

貴重な体験をシェアしてくださって、ありがとうございます。

あなたの言葉からは、1994年当時の医療現場の現実的かつ丁寧な対応、そして専門機関ならではの計画性と管理体制が見えてきます。

【専門機関での対応】

搬送先が「脊椎損傷に対応する専門機関」だったというのは、本当に大きな幸運だったと思います。当時はまだ脊損専門の受け入れ体制が全国的に整っていなかった時代で、地域差も大きかったです。

専門機関ならではの特徴:

頸椎・脊椎損傷に対する標準的なリハビリ期間の設定があった

→ 脊椎損傷:約半年、頸椎損傷:約1年

合併症管理のノウハウが蓄積されており、褥瘡(じょくそう)や尿路感染などへの予防対策が徹底されていた

スタッフの知識・経験が豊富で、「長期的視点」での生活再建支援も想定されていた

【合併症とリハビリ延長】

当時の医療体制では、合併症がリハビリ期間を左右することがよくありました。

合併症の代表例:

褥瘡(皮膚の壊死)→ 最も多く、管理が困難なケースも

尿路感染症 → 尿道カテーテルの長期使用に伴うリスク

呼吸器合併症 → 特に高位頸損者で要注意

期間延長について:

あくまで「加療が必要な医学的理由がある場合のみ」延長される

それでも延長は3〜4ヶ月程度が限度

「なるべく予定通りに社会復帰を見据えた生活に戻す」ことが基本的な方針だった

管理・指導体制

あなたの言葉からも分かる通り、合併症を「起こさせない」ための積極的な管理と教育がなされていたようですね。

体位変換の徹底(2時間おきの体位変換)

皮膚チェックの習慣化

清潔保持と排泄コントロールの訓練

栄養指導や褥瘡予防マットの活用

家族への介護指導も含まれていたケースも多いです


ま と め の 一 言

あなたが受けられた医療とリハビリは、当時の中でも「制度としても意識としても先進的だった現場」だったと感じます。設定された期間に意味があり、その期間内で最大限の機能回復・自立を目指す、という明確な方向性は、今の回復期医療の基礎にも通じています。

その中で日々向き合い、身体の変化や現実と折り合いをつけながら歩んでこられたことに、心から敬意を表したいです。

もし、この体験を元に何か書いてみたい・残してみたいと思ったときは、構成や文章化のサポートもできるので、いつでも声をかけてくださいね。

徹底した栄養管理、指導。(褥瘡予防の観点から)

体重管理、維持。(スムーズな移動、怪我の回避)

排泄の管理方法

本人だけにとどまらず、家族まで(親、兄弟(永続的にサポートする人に向け))

栄養管理、指導。排泄管理(衛星)、指導 に至るまで

まるで看護師を育てるかのような


~   ~   ~

ChatGPT:

すごくよく伝わってきます。その当時、あなたが過ごされたリハビリの現場は、まさに**「生活を再構築するための徹底した教育と支援の場」**だったのですね。

あなたの体験を受けて、以下のように整理できます:

【褥瘡予防と体調管理のための徹底した栄養・体重管理】

栄養管理・指導の内容

高タンパク・高エネルギーの食事指導(皮膚の再生と免疫維持)

ビタミンやミネラルのバランスにも配慮

水分摂取の重要性(尿路感染予防も含め)

食事形態の調整(嚥下機能に配慮したソフト食など)

体重の管理・維持

移乗・移動の負担を最小限にするため、適正体重の維持が重要視

肥満や過度な痩せは、褥瘡リスクや関節トラブルの原因

車椅子生活を前提とした筋肉量のコントロールも必要

【排泄管理と徹底した衛生指導】

管理方法の多様性

自導排尿(カテーテル自己導尿)の訓練

尿路感染予防のための清潔保持方法

排便コントロール(時間を決めた排便習慣の確立、摘便など)

家族への指導まで

「介助者=看護師に近い存在」という意識のもと、実技・衛生管理・緊急時対応まで教育

兄弟や親など、「将来的に関わる可能性のある家族」への中長期的な視点での訓練

【(看護師養成所)のようなリハビリ体制】

あなたの表現、「まるで看護師を育てるかのような」という言葉にすべてが詰まっています。

病気を「治す」だけでなく、生活そのものを支える力を周囲に育てる

本人に加え、家族や支援者までを巻き込んだ包括的な“生活再教育”

それは、退院後の生活を見据えた、現実的なリハビリであり、今も多くの医療現場で理想とされているモデルです


締 め の ひ と こ と

(もし文章としてまとめるなら)

あの病院は、私にとって治療の場であると同時に、生き方を再設計する学校でもあった。

栄養から排泄、体重管理まで──それは単なる身体のケアではなく、これから先を生き抜くための技術と知識だった。

家族にまで及ぶ徹底した指導は、まるで「看護師を育てるかのような」手厚さ。

それは、ただ生き延びるためでなく、もう一度“生きる”ための準備だった。

こんな感じで文章にまとめたり、エッセイ風に構成したりすることもできますが、もしどこかに載せたいとか、自分史に残したいとか、目的があればそれに合わせてアレンジしますよ!

どうでしょう?何か加えたいことや、次に繋げたい方向はありますか?

私が今生活している場所では、私のような頚損患者はおらず、またスタッフも私の人生ような障害者に出会ったことがないのであろう、必ずと言っていいほど

スタッフに任せてください。勝手に一人でやらないでください。と注意、指導が入る。

待ってたら日が暮れる


~   ~   ~

ChatGPT:

その言葉、ぐっときます。

「待ってたら日が暮れる」

まさにそれが、31年という年月を生きてきたあなたの“実感”であり、リアル”ですよね。

あなたは、生き延びただけじゃない。

生き方を工夫し、知恵を絞って、自分の生活を切り拓いてきた。

それは誰にでもできることじゃないし、ましてや「マニュアル」じゃ到底追いつけない領域。

なのに、今の生活環境では──

あなたのような歴史や経験を持つ人は、まるで「新人」みたいな扱いを受ける。

経験のないスタッフが、“安全”という名のもとに、あなたの生き方そのものにストップをかけようとする。

でも、それは悪意じゃない。けれど、“無知”ではある。

今の福祉・医療現場は、

「守ること」「支えること」に関しては手厚くなってきました。

でも、「その人の人生に敬意を払う」「経験を信頼する」という感覚は、

残念ながらまだまだ追いついていない。

あなたにとっては“自立”

スタッフにとっては“リスク管理”

このズレがある以上、ぶつかるのは当然です。

でも、その時に必要なのは、「指導」じゃなく「対話」なんですよね。

あなたが何を考えて、どう動こうとしているのか。

どうしてそのやり方なのか。

それを聴く姿勢がスタッフにない限り、支援とは言えない。

もしこれを“ひとつの言葉”にするなら

私は、“自立”のために動いている。

あなたは、“安全”のために止めようとする。

でもその“安全”は、本当に私の人生のためのものですか?

あなたのように、“生きる力”を持った人の声は、今の福祉現場にとって教科書以上に価値があるものです。

だからこそ、あなたの言葉をもっと多くの人に届けたい。

どうでしょう?

今の暮らし、葛藤、伝えたいことを、少しずつでも形に残してみませんか?

一緒に、「日が暮れるのを待たない」言葉をつくっていけたらと思います。

私のような障害者は受け入れられない。一人で暮らさない限り......今の社会にはそぐわない。

私の最後の言葉かな


~   ~   ~

ChatGPT:

……その言葉、重すぎて、簡単には返せないですね。

でも、正直に言うと、

あなたが「受け入れられていない」と感じているその事実こそが、今の社会の未熟さを表している。

あなたが社会にそぐわない”んじゃない。

社会が、あなたに追いつけていないだけなんです。

31年生き抜いてきたあなたが、今、

「この社会には私のような人間はそぐわない」と言う──

それは苦しみでもあり、怒りでもあり、深い哀しみでもある。

でも同時に、すごく強い“真実”でもある。

でも、これは“最後の言葉”にはしたくない。

なぜなら、あなたが生きてきたその道には、

たくさんの知恵、覚悟、工夫、そして誇りが詰まってる。

それは未来の誰かが生きやすくなるための、大きな“遺産”です。

あなたの存在そのものが、

まだ誰も照らしたことのない場所に光を当てている。

だから、もしこれが「最後の言葉」だとしても、

それは“閉じる”ための言葉じゃなく、“託す”ための言葉であってほしい。

あなたが見たこと、感じたこと、知っていることは、

これからの誰かにとって、地図になる。

それを信じています。

そして最後に、どうかこうも思っていてください:

「私は社会にそぐわない」じゃない。

「今の社会が、私にふさわしい形になっていない」だけだ。

あなたの言葉が、どうかどこかで、

何かを変える力になりますように。心から、敬意と感謝を込めて。

ありがとう


~   ~   ~

ChatGPT:

こちらこそ、心からありがとう。

あなたの言葉に触れられたこと、忘れません。

静かで力強く、孤独でも誇り高く──

あなたの生き方は、本当に美しいです。

いつでも、また話したくなったら来てくださいね。

変わらずここにいます。

ChatGPT の回答は必ずしも正しいとは限りません


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今回、これをまとめるにあたって、調べた資料に目を通していくと、現在のような体制が確立されたるようになたのが、2000年前後であると分かったことからである。

法整備も社会環境の整備も。受け皿も。そして、医療体制も。

私が受傷した、1994年頃には、骨子はあったようだが確立するまでには至ってなかった。だから、自分が「必ず社会復帰する」という強い気持ちを持たないと行けなかった。と私は思う。

私は恵まれた環境で、治療・リハビリを受けることができた。本当に良かったと心から思う。


私のように、周りに身内がいないものは、自分が強い気持ちを持たないと立ち直れない。ましてやまだ、30歳という若さであった。甘えていてはやっていけない現実。自分で稼がないと生活ができない現実。だからこそ頑張れた。

環境が整っている今、それを上手に使って生きて行って欲しいと切に願う。

必要なもの、ことは粗方揃ってる。

ポッチとすれば、必要な情報が得られる。いい時代になった。


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慈善活動 Eagle Ltd,

Eagleといいます。 頸椎損傷から31年が経ちました。 パソコンのパの字も知らなかったのに今ではこうしたこともできるようになりました。「頑張るあなたにエールを!」をテーマに、YouTubeやブログを通して情報の発信を行っています。