脊椎損傷(頸椎)その変遷



イーグルから暴騰の言葉

1994年の冬、私は脊椎損傷(頸椎)を負い、その後のリハビリや社会生活を経験しました。今回この文章を掲載しようと考えたのは、その当時と現在とで、脊椎損傷に対する捉え方が大きく変化していると感じたからです。リハビリテーションのあり方、社会との関わり方、そして何よりも当事者自身の受け止め方に違いが見られるようになった今、その変化を伝えたいと思いました。





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資料は Google検索にて

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脊 椎 損 傷 ( 頸 椎 )の 変 遷


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わが国での脊髄損傷の発生とリハビリテーション医療の歴史

三上 靖夫  河﨑  敬  新庄 浩成

京都府立医科大学大学院 医学研究科 リハビリテーション医学


抄 録

脊髄損傷の主な発生原因や頻度は地域や時代背景により異なる。わが国で脊髄損傷について詳細に記された最も古い記録は、日清戦争での射創についてであった。その後も戦争による脊髄損傷者が多く発生した。当時は頚髄損傷による完全麻痺を受傷すると合併症により短期間で死に至ることが多く、主な治療対象は胸腰髄損傷による下肢麻痺患者であった。傷痍軍人は軍が管理する病院に集められ、起立・歩行訓練が徹底的に行われた。戦後の高度成長期になると炭鉱などでの労働災害による受傷が増え、労災病院でも徹底した起立・歩行訓練が行われた。しかし、下肢麻痺患者にとって両下肢装具と松葉杖を使った歩行は実用的ではなかった。

1970年代に交通事故による頚髄損傷が増加して胸腰髄損傷を上回るようになった。また、1964年の東京パラリンピックで海外から車いすでやってきた選手が自立した生活を送っていることに人々は驚いた。頚髄損傷者が自立した生活を送れるよう、訓練の内容だけでなく社会環境の整備を含むリハビリテーション医療に変化が生じた。超高齢社会の現在、転倒など軽微な外力で非骨傷性頚髄損傷を受傷する高齢者が増加している。合併症に対する治療が進歩し、脊髄再生医療の実用化が始まった。


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社会的背景と脊髄損傷

ー 省略 ー

高度成長期(炭鉱以外での労働災害、交通事故)

戦後の高度成長期(1954〜1970)には、生産力が増大し建設ラッシュとなった。一方で安全対策が十分でなく、工場での事故や足場からの墜落などによる労働災害が増加した。「松井」は労働災害で受傷した脊髄損者を対象に行ったアンケート調査または資料から得た2200人近くのデータより受傷機序を分析した。その結果、墜落(46%)と下敷き(36%)で全体の8割を占めており、1950年代は下敷きが第1位。1960年以降は墜落が増加して、炭鉱の落盤事故から土砂くずれ、伐採中の木、鉄板、荷崩れなどによる下敷きへと多様化していく傾向が示された。また、自動車台数が急速に増大する一方で、歩道や信号の整備が追い付かず交通事故が増加した。死者数が増えていく状況は交通線戦争と呼ばれ、脊髄損者の患者数も増加したと思われる。

発生状況の調査(受傷原因と発生頻度)

脊髄損傷患者の発生について初めて全国的な調査が行われたのが1990〜1992年であった。日本パラプレジア医学会(現 日本脊髄障害医学会)の脊損予防委員会が中心となり、国内の病院および有床診療所 8,569施設、9,270科を対象に3年間にわたりアンケート調査を行った。調査を実施した 3 年間の平均回収率は 51.4%であった。

その結果、脊髄損傷の発生頻度は年間人口 100万人あたり 40.2 人で、受傷時平均年齢は48.6歳であった。

世界各地域での脊髄損傷の発生頻度は国によって調査対象や集計方法が異なるので大まかな比較であるが、地域や国により発生頻度は異なる。

2004年にも日本整形外科学会、日本脳神経外科学会、日本リハビリテーション医学会の研修施設 3,856施設を対象とした全国調査が行われたが、回収率が21.2%と低かっ

たため発生頻度の推計は行われなかった。その後、2005〜2007年に福岡県で実施された調査での脊髄損傷の発生頻度と受傷時平均年齢は、年間人口100万人あたり、30.8人と57.6歳。

2009〜2012年に高知県が実施された調査では 134.1人と64.0歳。

2011〜2012年に徳島県で実施された調査では 119.2人と66.0歳であった。


2000~2002 年の全国調査と福岡県、高知県、徳島県の調査について、それぞれの発生頻度、受傷時年齢、頚髄損傷および非骨傷性脊髄損傷が占める割合と報告時の高齢化率は、調査対象の地域は異なるが、年々受傷時年齢があがり、頚髄損傷、非骨傷性脊髄損傷が占める割合が増加している。そして、これらの変化は高齢化率の上昇と呼応していることが判る。

高齢化と脊髄損傷

Frankel 分類による脊髄損傷の重症度について、日本脊髄障害医学会の脊損予防委員会で毎年行われている脊髄損傷発生状況調査の2017年のデータから脊髄損傷の重症度、

発生頻度と高齢化率

1990〜1992年の全国調査の結果と比べ、各道県とも重症脊髄損傷である。

高齢化率が 30%を上回る和歌山県、徳島県、高知県では脊髄損傷の発生頻度がかなり高くなっている.以上より、世界に例を見ないスピードで超高齢社会に突入したわが国では高齢者の非骨傷性頚髄損傷の発生頻度が増大していることが特徴といえる。

脊髄損傷の受傷原因は社会的背景に大きな影響を受ける、世界各国での脊髄損傷の原因をレビューした Lee らの報告によれば、

交通手段や転落はどの国においても主な原因である。しかし、交通網発達の程度や建築現場の状況、安全への設備・配慮、国民性はそれぞれ異なり、受傷頻度も異なる。発砲事故が脊髄損傷の原因として多い国もある。

わが国での受傷原因も時代とともに変化してきた。1990~1992年の全国調査では受傷原因として交通事故が40%以上を占めていたが、2005年以降に実施された徳島県、高知県、福岡県の調査では、いずれの県でも交通事故による脊髄損傷は減少し、平地での転倒もしくは低所からの転落が増加していた。交通事故による重傷者数は、2000年以降減少の一途を辿っている。一方で、高齢者が増えていることが脊髄損傷受傷原因の変遷に影響していると思われる。


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総合せき損センター

総合せき損センターへ 2012〜2015年の4年の間に搬入された非骨傷性頚髄損傷144例の報告では、受傷原因について転落、5例と転倒54例で全症例の 3/4を占めていた。これらは、50歳代以降に多く発生し、70歳代にピークがあったとしている。一方、交通事故は27例(18.8%)に留まり発生のピークは、60 歳代で、40%以上が自転車での事故であったとしている。

1990〜1992年の報告では、交通事故による脊髄損傷の受傷平均年齢は、44.4歳で、内訳として、自動車事故が全体の47.1%を占め、自転車による事故は15.6%に過ぎなかった。かつて、主な受傷原因であった戦争での射創、炭鉱での事故がなくなり、高度成長期に増加した交通事故も減少して高齢者の平地での転倒や自転車での事故などにとってかわられつつある。

2019 年には日本脊髄障害医学会により、脊髄損傷の発生状況について全国調査が行わ

れ、現在膨大なデータを解析中である。


脊髄損傷に対する

リハビリテーション医療の変遷


ー 省 略 ー


戦後の労災病院でのリハビリテーション医療

終戦後のわが国では、復興を目指して産業活動が活発化する一方で、労働災害が多発した。

1949年以降、労働省により全国に労災病院開設が進められ、多くの脊髄損傷患者が各地の労災病院で治療を受けた。


福岡労災病院整形外科部長であった「岩崎」は、多くの炭鉱を抱える福岡県で、1947~1954年に発生した脊髄損傷患者の調査を行い、毎年400人前後の脊椎外傷患者が発生し、そのなかで重度脊髄損傷患者が30~40人発生したと報告した。当時、脊髄損傷を専門として診療する施設は労災病院など限られた施設だけであり、入院するとほとんどの症例が長期間の入院となった。そのため新規入院患者の受け入れは限られ、専門的な治療を受ける機会を得られず、機能の回復が得られないまま不幸な転帰を辿った患者も少なくなかったと考える。


東北労災病院整形外科部長であった「木村」は、1950年代には半数以上の症例が受傷から入院まで3か月以上要し、その大多数は前医でギプスベッドなどに寝かされたまま行き届いた治療を受けられず、むしろ褥瘡や尿路感染による感染で衰弱した状態で転院してきたと記している。同院での1950年代後半のリハビリテーション治療の内容については次のように記されている。入院まで長期を経ている症例が多く、まず褥瘡や尿路感染などの合併症の対処を行ってから、

①ベッド上での寝返り訓練

②自力でベッドから起き上がり長座位をとる訓練

③ベッド上で座位を維持する訓練

④ベッドと車いす、洋式便座との移乗訓練

⑤膝を伸展位に固定しながら松葉杖を使った歩行訓練に取り組んだ。

歩行訓練には「全身の新陳代謝を高め、食欲を増進させ、褥瘡や腎膀胱内結石の予防とする。」といった意義を持たせていた。


入院患者の転帰については触れられていない。職能訓練(現在の作業療法につながる)についても記載はあるが、どのような訓練が行われたのかは判らない。

重度脊髄損傷者の退院後(平均 2年5か月)に行われたアンケート調査結果では、大半が終日臥床しており、入院時に獲得したと思われる松葉杖歩行は行われておらず、支給された車いすも使っていない者が半数との結果であった。

戦前から行われてきた歩行訓練の見直し1950年~1960年代は、わが国のリハビリテーション医学・医療が発展する土台が構築された時代といえる。リハビリテーション医学の先達が渡米して米国のリハビリテーション医学・医療に触れる機会を持つようになった。リハビリテーション医学の父と称された「Howard Rusk」のもとに、若手・中堅医師が次々とリハビリテーション医学を学びに渡米し、後の日本のリハビリテーション医学・医療の発展に寄与した。

リハビリテーションという言葉が日本で使われるようになったのは、1950年代のことである。1963年には日本リハビリテーション医学会が設立され、理学療法士・作業療法士の養成校が開校した。国内初の理学療法士・作業療法士の誕生はその3年後 のことである。

1968年の第5回、日本リハビリテーション医学会総会で、「富田」が国立箱根療養所(旧 傷痍軍人箱根療養所)での過去10年間の脊髄損傷患者に対するリハビリテーション医療について報告した。同院では、1964年の東京パラリンピックを機にスポーツを取り入れ、車いすの開発にも取り組み、自動車運転訓練まで始めている。退所者の調査では、1日中ベッド上で過ごす者は少なくなり、自力で生活できる者も増えつつあった。しかし、同院は戦前から多くの脊髄損傷患者の診療にあたっており、脊髄損傷に関しては当時国内最高のリハビリテーション医療を提供していたと思われる。ほとんどの病院では両下肢麻痺患者に対してひたすら歩行訓練が行われたが、実生活で役立つことはなかったようである。「坂井」は歩行訓練を受けた当時の患者の話を引用し、患者自身が訓練によって歩けるようにはならないと察し、訓練の限界を実感していたと指摘している。

1969年の第6回、日本リハビリテーション医学会総会で、「小川」は過去6年間に中部労災病院から自宅へ退院した重度脊髄損傷患者、31名の生活状況を調査した結果を次のように報告した。28 例が復職していたが、多くの患者が室内では「ほふく」や四つ這などで移動していた。浴室の改造は12 例、便所の洋式への改造は11 例で、他の20例は市販の腰かけを用いていた。「坂本」は 1974 年に大阪労災病院退院した 107名の患者のアンケート調査の結果を次のように報告した。

車いすで生活するものが 71%を占め、「我々が多いであろうと予想していた松葉杖の生活者が予想に反して意外と少なく 10%程度であった。」

「我々は過酷なまでに入院中のリハビリテーションとして松葉杖の歩行訓練を強いたが、実際、退院後は実用的にあまり利用されていないとなれば訓練内容を考え直さねばならない。」とした。入院中に訓練で獲得した歩行能力を日本家屋の自宅で活かすことは難しく、自宅の改修が生活を可能にしていた。以上のように、起立・歩行訓練は自宅へ退院した脊髄損傷患者にとって役には立たず、実際に退院後も歩行を続けている者が少ないことから、歩行訓練を見直すべきとの意見が医療者側から出るようになった。のちに 《Stauffer》は胸髄損傷による完全麻痺例に松葉杖と装具を用いた歩行訓練をさせることは現実的でなく、適応となる症例が少ないことを示した。また、車いすについては、国産の車いすが登場したのは大正時代とされ、現在のような金属パイプ製で折りたたみ可能な前輪駆動式車いすが市販されるようになったのは 1950年頃とされる。

当時、車いすは十分に流通しておらず、手に入れても舗装された生活道路は少なくて使い勝手が悪く、ましてや日本家屋の屋内での使用は困難であったと思われる。その後、1964年の東京パラリンピックで海外からの参加者が使う車いすや操作技術がすばらしく、また自立した生活を送っていることに、日本との違いを思い知らされることになった。これをきっかけに脊髄損傷者が充実した生活を送れるようにすべきとの機運が高まり、車いすなどの福祉機器の開発が進められた。また、わが国で障がい者スポーツに本格的に取り組み、東京でのパラリンピック開催に尽力した「中村」は、障がい者が自立して働く場を作ることに東奔西走し、太陽の家を設立した。なお、1960年に障害者の雇用の促進等に関する法律が制定されている。

胸腰髄損傷による両下肢麻痺に対して行われた歩行訓練が、実用的な効果に結びつかないことが判っていく一方で、欧米の進んだリハビリテーション医学が国内で徐々に浸透した。また、リハビリテーション治療の専門職である理学療法士や作業療法士が毎年輩出され、装具や車いすなどの福祉機器が充実していった。さらに、交通事故の増加により 1967年から頚髄損傷患者が増加し、九州労災病院への入院患者数は、1971年には頚髄損傷が胸腰髄損傷を患者数で上回るようになった。頚髄損傷による四肢麻痺となれば歩行訓練を行うことは難しく、上肢に麻痺があれば松葉杖も持てない。リハビリテーション治療にそれまで重視されなかった車いす訓練が加わり、家屋の改修や麻痺した上肢でも運転できる自動車の改造、さらには環境制御装置の実用化などが進んだ。実用歩行を獲得できない胸腰髄損傷患者では頚髄損傷と同じく車いす訓練を受けられるようになったと思われる。

1979 年に開催された第16回、日本リハビリテーション医学会総会では、頚髄損傷者の自動車運転についての演題や就労に触れる演題がみられるようになった。

現在の脊髄損傷に対するリハビリテーション医療

わが国では 1990年頃から高齢化に拍車がかかり、高齢者の転倒による非骨傷性頚髄損傷が増加してきた。安静臥床は不動による合併症を引き起こして全身状態を悪化させるため、できるだけ早期から積極的に訓練を進めることが重要である。骨折や脱臼などの骨傷がなければカラーによる固定で早期離床を進めるが、骨傷があってもインストゥルメンテーションやハローベストを使えば術後早期に離床できる。

しかし,頚髄損傷または T5 より高位の胸髄損傷では自律神経機能障害によって急性期には

全身状態が安定せず、起立性低血圧で離床が進まないことも多い、全身状態が安定すれば、2000年に制定された回復期リハビリテーション病棟へ転院し、1 日最大で180分間、理学療法士や作業療法士とマンツーマンで 150日(重度の頚髄損傷では 180日)を上限に訓練を受けることができる。訓練は再び自宅で生活を送るために必要な動作を習得できるように計画的に行われる。ロボットの支援で歩行訓練を行うこともできる。機能が十分に戻らなければ自助具や装具、福祉器具を導入し、治療と並行して住環境の整備を含めた準備を進め、障害を克服して QOL を最大限に高めることができるよう多職種によるチームでリハビリテーション医療を実践する。

脊髄損傷患者を常に悩ませてきた合併症についても医療の進歩により様々な治療法や対処法が開発されている。

1)褥瘡:必発と言われてきた合併症であったが、受傷後に寝たままで過ごす時間が大きく短縮されたうえに、ベッド上で圧を分散させるマットや車いす用のクッションが予防に用いられてる。創を保護するハイドロコロイド、ポリウレタンフォーム(フイルム)といった被覆材が改良され、座位での圧力集中部位をチェックする圧力分布測定装置や皮下の状態を評価する超音波診断装置などが褥瘡の予防や早期発見に使われている。

2)排尿障害:2011 年には『脊髄損傷におけ排尿障害の診療ガイドライン』が 2019年には『脊髄損傷における下部尿路機能障害診療ガイドライン』が上梓され、エビデンスレベルの高い診療指針が明確にされた。診断にはウロダイナミクス検査が評価に活用されるが、超音波を用いて簡便に残尿を測定できる装置も使われている。清潔間欠自己導尿法(clean intermittent catheterization:CIC)が普及し、全国で 2500名が登録されている皮膚・排泄ケア認定看護師(Certified Nurse in Wound, Ostomy and Continence Nursing)が褥瘡や排泄のケアを担当する病院も増えてきた。

3)疼痛:疼痛に日夜悩まされている脊髄損傷患者は多い、疼痛の考え方が変わり、体性感覚神経系の病変や疾患によって引き起こされる神経障害性疼痛が提唱され、2016年に神経障害性疼痛薬物療法ガイドライン改訂。第2版が上梓された。

ガイドラインは Ca2₊ チャンネル α2δ リガンドであるプレガバリンやミロガバリン、三環系抗うつ薬、セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬やオピオイド鎮痛薬など新しい薬剤の使用指針になっている。

4)痙縮:痙縮は、活動や介護を妨げ、ときに痛みを伴って生活を脅かす。筋緊張が重度で広範囲に渡っている場合には、2006年から ITB(Intrathecal baclofen /髄腔内バクロフェン投与)療法が行われるようになった。身体内に植め込んだポンプが脊髄のくも膜下腔へ筋弛緩剤を持続的に送り込む。上下肢で痙縮が強い筋を選択してボツリヌス菌が産生するボツリヌス毒素を注入するボツリヌス毒素療法が 2010年から行われるようになり、全国に普及している。ボツリヌス毒素が神経筋接合部の神経終末内でアセチルコリン放出を抑制することで神経筋伝達を阻害して筋弛緩作用を得ることができる。

社会資源制度としては、

介護保険法(2000年)や障害者自立支援法(2005年)を改正した障害者総合支援法(2013年)が脊髄損傷者の日常生活及び社会生活を総合的に支援している。

脊髄に直接働きかける治療法として、脊髄の浮腫や虚血、サイトカインなどがもたらす炎症などを原因とする二次損傷を防ぐ目的でステロイド(メチルプレドニゾロン)大量投与療法が考案された。わが国では 1997年に治療として認可を受け広がったが、有効性を示す結果よりも副作用の報告が多くみられ、2013年の米国神経外科学会脊髄損傷ガイドラインでは推奨されないと明記された。

近年。脊髄の再生医療に関する研究が大きく進んで実用化が始まった。札幌医科大学では骨髄由来間葉系細胞の静脈内投与の医師主導治験が 2013~2017年に実施され、その結果ステミラック® 注(一般的名称:ヒト(自己)骨髄由来間葉系幹細胞)が 2019年に薬価基準に収載された。

対象はAIS(ASIA Impairment Scale)

A,B,C の重度の外傷性脊髄損傷である。

受傷後2 週間以内に札幌医科大学附属病院へ転院し、同大学の細胞調整施設で採取された骨髄液から間葉系幹細胞が分離され、2~3週間かけて、およそ 1 万倍(1 億個)にまで培養して末梢静内へ投与される。

そのほか、顆粒球コロニー刺激因子(granulocyte-colony stimulating factor: G-CSF),

Muse 細胞(Multilineage-differentiating Stress Enduring cells),

iPS 細胞由来

神経幹/前駆細胞(neural stem precursor cell, NSPC)などを用いた治験や臨床試験研究が進行中である。



お わ り に

かつて、脊髄損傷といえば永続的に麻痺が残るだけでなく重篤な合併症より短命とされ、患者も医療者も治療に前向きになれなかった。1986年に筆者が地方の関連病院に着任したとき、すでに入院後 15年以上を経過している胸髄損傷による対麻痺患者がいた。専門的なリハビリテーション医療を提供できなかった大多数の病院では、脊髄損傷者の多くが病室で過ごすしかなかった時代であった。以来、約35年が経過し、頚髄損傷者であっても医療や医工学の進歩、社会制度や資源を活用することで自立した生活を送ることが可能となった。今後、再生医療やロボティクスが脊髄損傷の治療の進歩に大きく貢献することが期待される。しかし、これらの新しい治療法も、地道なリハビリテーション治療があって初めて機能回復に繋がることに変わりはない。

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Eagleといいます。 頸椎損傷から31年が経ちました。 パソコンのパの字も知らなかったのに今ではこうしたこともできるようになりました。「頑張るあなたにエールを!」をテーマに、YouTubeやブログを通して情報の発信を行っています。