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全身に転移したがん 闘病の末に“安楽死”を選んだ母…

あれから2年 母の決断と向き合った家族の思いと現在地

配信 2025年11月2日 06:30更新 2025年11月2日 15:05


「私だって生きられるなら死にたくない」。そんな思いを抱えながら命の決断をした母がいます。家族4人でゲームを楽しみ、笑い、語り合う。夫と2人の娘と暮らすマユミさん(44)と家族は、この楽しそうな姿からは想像できないほどの苦悩と向き合ってきました。


全身に転移したがんに苦しむ中、日本では許されていない「安楽死」をスイスで選んだ母と、その決断に向き合った夫と2人の娘の姿を記録した「私のママが決めたこと~命と向き合った家族の記録~

は大きな反響を呼び、TVer見逃し配信「報道・ドキュメンタリー部門」で歴代最高再生数を記録しました。


母の死から2年、当時を振り返り、家族は今、何を思い、どう生きるのか…。

闘病の末 44歳の母が決めたことに娘たちは…

マユミさんの病気がわかったのは、2020年12月。子宮頸がんでした。しかもそれは、神経内分泌腫瘍という進行が速い希少がんでした。子宮頸がんから膣、膵臓、肺、頭皮、さらには脳へとわずか3年のうちにがんが転移を繰り返し、身体はもう、限界を迎えていました。あらゆる治療を尽くした末、彼女は“安楽死”が認められているスイスで最期を迎えることを決めたのです。


当時高校生3年生だった長女は、「最初は元気な時に言われたので冗談かと思いました」と当時を振り返ります。母の決めたことに実感を持つまで、時間がかかったそうです。

小学6年生だった次女には最初、手紙を通じて知らされました。その時、マユミさんはこんな言葉を綴っていました。

「悲しい話をします。ママはもう体がつらくて、これからはもっとひどいことになるから、

11/9にスイスで死をむかえようと思ってます。

11/5に出発します。

受験、応援してるよ。そばには居れないけど、いつも応援してるからね。大人になって、仕事したり、子供が出来たり、これからの人生がすばらしいものになるよう祈ってます。大すきだよ。ずっとずっと応援してるからね」


母にもっと一緒にいてほしい。それでも、つらい闘病生活を誰よりも近い距離で支えてきた娘たちは、母の一番の理解者でもありました。

夫のマコトさんに打ち明けられたのは、病院からの帰路にあった車中でした。マコトさんは、妻を止めようと必死でした。これまでも妻を隣で励まし続け、その度に前へと進んできた夫婦。それでも、この時は状況が違いました。頭皮に転移したがんは、日に日に肥大化していくのが目に見えて分かったのです

「このペースで脳ががんでパンパンになっていくのは耐えられない」

スイスへの飛行機に乗ろうにも、大きくなった脳の腫瘍が気圧変化の影響を受ける可能性まで出てきました。 もう時間がなかったのです。


家族で何度も言葉が交わされた後、マユミさんはスイス行きの飛行機に乗ることとなります。

「大号泣したのを覚えています」空港でのお別れ

2023年11月5日、日曜日の朝。マユミさんが空港へ向かう日です。翌年には大学生になる娘は、母にあることをお願いします。それは、メイクの仕方を教えてもらうことでした。

母が娘に化粧道具の説明をし、メイクをして見せるその様子は、いつもとなんら変わらない日常そのものでした。


こうして自宅を後にしたマユミさん。家族で話し合った結果、娘たちはスイスに同行せず、夫婦二人で向かうことになっていました。元々、娘たちとは自宅でお別れをする予定でしたが、残された時間、少しでも一緒に母と過ごしたいという娘たちの希望から、娘たちも空港まで同行しました。家族は、これから最後の別れとは思えないほどに明るく、和気あいあいとしていました。


空港に着き、別れの時間まで1時間ほどありました。「何か言っとかなあかんことは?」という夫のマコトさんの問いに「なんとでもなるから、好きに生きたらいい」と、娘たちに言葉をかけたマユミさん。母と娘たちは、それぞれがしつらえた手紙を交換すると、涙ひとつ見せずにお別れをしました。

それでも、当時のことを娘たちに話を聞くと、「大号泣しました」と教えてくれました。悲しい別れにしないように、と家族で約束していたのだそうです。だから、母が背を向けて保安検査場に向かうと、後ろを向いた娘たち。こらえていた涙が、溢れてしまいました。

涙ながらに語った「悔しさ」


スイスに到着すると、マユミさんには最後にやっておきたいことがたくさんありました。娘たちの誕生日には、毎年自分からのメッセージが届くように、と何年分もの手紙を認め、マコトさんに託しました。最期を迎える前夜、マユミさんは娘たちに向けたボイスメッセージも撮影していました。「おはよう」「おやすみ」「大好きだよ」…娘たちから送られてきていたリストを1つ1つ、照れながらも丁寧にマユミさんはカメラに向かって読み上げていきました。夫のマコトさんからは「愛してる」と言ってほしいというリクエストが入りました。照れながらも、「愛してる」とマユミさん。言い方が気に入らなかったようで、マコトさんは「もっと真剣に」と、言い直しを求めました。明るく、笑いながら、ボイスメッセージの撮影が終わると、マユミさんは娘たちへの思いを吐露しました。


「子どもなりにすごくいろいろ考えていて、その時々で私が『欲しいと思っているんだろうな』っていう言葉をずっとかけてきてくれていて、本心ではない部分もあると思うんですけど受け入れようとしてくれて、そういう風に言ってくれるのはありがたい一方で、私自身はもうこれから逆に返せるものがなくなっちゃうので、残念というか悔しいという気持ちがあります」

これまでずっと気丈に振る舞っていたマユミさんの頬には涙が伝っていました。


「みんな、元気でね」家族にかけた最後の言葉

 スイス最終日。朝8時半にホテルのロビーを出発した夫婦。タクシーに乗って、最期を迎える施設へと向かいました。ホテルでこれまでの思い出を朝まで語り合っていたという2人は一睡もしなかったそうで、どこか疲れ切っているようでした。タクシーの中では沈黙が続きました。窓の外をじっと見つめるマユミさんを乗せた車は、30分ほどで施設に到着しました。

医師たちとの挨拶を済ませると、マユミさんはすぐに娘たちとテレビ電話を繋ぎました。昨晩家族で話し合い、娘たちも画面越しに母の最期を見届けることになったといいます。点滴をつなぐタイミングから、マコトさんがスマホを持ち、娘たちに準備の全てを見せていました。

医師から最終確認がありました。「この点滴を開けるとどうなるかわかっていますか?」「私は死にます」「死を望む気持ちが確かなら、この点滴を開けていいですよ」その言葉を聞き、うなずいたマユミさん。マコトさんから「出会ってくれてありがとう。生きてくれてありがとう」と、言葉がかけられると、それに続いて娘たちも、「ママ大好き」「また会おう」と涙ながらに母への言葉を送りました。マユミさんはそっと点滴の栓を開けました。「スイスに行っていいよって言ってくれてありがとう。みんな、元気でね。」それが、最後の言葉となりました。


母が娘たちに遺した数々

マユミさんが旅立った後も、その存在は、家族の中に息づいていました。娘たちに残された何年分ものバースデーカード。エクセルに細かく記載されたやることリスト。料理好きだったマユミさん直筆のレシピ。最後まで家族のことを考え続け、マユミさんはあらゆるものを家族のために遺していました。


月命日、家族はマユミさんの友人や会社の同僚を招いてお別れ会を開き、30人ほどが集まりました。プロジェクターにはマユミさんと家族の思い出の写真が映し出され、友人と同僚は涙ながらに追悼の言葉を送りました。しかし、マコトさんの言葉で会を仕切り直し、立食でのパーティーが開かれると、皆朗らかな表情で、マユミさんとの思い出を語っていました。「何かあったらいつでも相談してな」マユミさんのママ友が娘たちにそんな言葉を自然とかけていました。これもまた、マユミさんの人柄あってのことです。会社の上司はマコトさんに「マユミさんは女性陣の支柱になっていたんですよ」と言葉をかけました。亡くなる直前まで、やることリストをまとめるマユミさんの姿から、仕事での活躍ぶりを想像するのは容易いものでした。お別れ会は、マユミさんの温かさを体現したかのような、温かさに包まれていました。


あれから2年… 母から届いた手紙

2人の娘はそれぞれ、志望していた大学と中学に進学。そして2025年に長女は二十歳の誕生日を迎えました。父の手を借りて手渡されたのは、母・マユミさんからの手紙。二十歳を祝うメッセージの中には、成人式を気にかける様子や、「お酒も飲めるね」といった、まるで今もすぐ近くにマユミさんがいるかのような温もりのある言葉が並んでいます。こうして娘たちは、今も母の声を聞くことができています。

家族が集まるダイニングテーブルには、今もマユミさん専用の席が。長女の誕生日ケーキも、マユミさんの分まで切り分けられて用意されました。家族は、マユミさんの存在を今でも日々感じながら、前を向いて進んでいます。


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番組では描ききれなかった“応援の記録”と“未来の娘たち”へのエール

『私のママが決めたこと』

配信 2025年11月2日 14:54更新 2025年11月3日 11:24


めざましmedia

全身に転移したがんに苦しむ中、日本では許されていない「安楽死」をスイスで選んだ母と、その決断に向き合った夫と2人の娘の「その後」を記録した「私のママが決めたこと 〜あれから2年 母を思う旅〜」が11月2日(日)に「ザ・ノンフィクション」で放送されました。

番組では描ききれなかった、娘たちから闘病中の母・マユミさん(44)への“応援の記録”、そしてマユミさんが遺した“未来の娘たち”へのメッセージには、娘から母、母から娘への感謝と愛が詰まっていました。


「ママの役に立ちたい」母の闘病中に交わされた日記

2020年12月に子宮頸がんがわかったマユミさん。進行の早かったマユミさんのがんは膣、膵臓、肺、頭皮、脳へと転移を繰り返していき、コロナ下での入院も経験することに。

娘たちは、「思い出ノート」と1ページ目にタイトルが書かれた交換日記を通じて、マユミさんと言葉を交わしていました。


そして次のページには、この交換日記の「説明」という欄が設けられていました。

さみしくなった時に見てね

このノートを持ってたらどんだけ遠くにいても心はいつも一緒です

絵かいてるだけやけど許してw

そう書かれたこのノートには、いたるところに絵が散りばめられ、娘たちから母へのエールに溢れていました。


高校生だった長女からは、

毎日毎日怖くてつらくて不安だよね。そういう時は未来のことを考えたらちょっと明るくなるかも!大人になってママと飲み会するのがめっちゃ楽しみ!

と、母を気遣う言葉や、小学生だった次女からは、

ママのやくにたちたい!ってずっと思ってるからなんでもいってね!毎日手紙楽しみにしててね!

といった、母を一生懸命に応援する思いがこのノートに詰められていました。

「みんなの魂が…」長女が伝えたありったけの思い

どのページにもかわいらしい絵が添えられている中、一面に長女の思いが文字だけでぎっしりと綴られたページがありました。


ママへ

ママは今まで家族のために全力でつっぱしってきてくれたから神様が少しの間休憩をくれたんだよ。家族のみんなとゆっくりだらだらする時間も増えたし、お話をたくさんしたり、本音をいいあえたりして最高の時間だったよ

ママが病気になっていなかったらそれは良いことだけど、お散歩一緒にしたり、ねる前にハグしたり、そういうことができてなかったと思う。だから病気は怖くてイヤでしょうがないけど、そういう時間をママと過ごせて本当に幸せだよ。ありがとう。

ママがつくってくれたごはん、最高においしかったよ。一番はサーモンフライですw その次は合格の時と、ひなまつりにつくってくれた、ちらしずし。三番目はブラウニー!!アジフライもおいしかったな!あ!!まって、オムライスが一番かも。どれもおいしくて一生忘れないよ。お弁当に入っていたチーズのおにぎりもよかったな〜。本当につくってくれてありがとう。


ママほんとにめちゃめちゃつかれたあとに2人のおむかえ行ってそっからごはんつくって、そのあとまたパソコンに向かって、全国のお母さんって本当に大変なんだなって思った。ママはほんまにすごい。

ママがいっぱい相談してくれて本当に良かった。「みんなに心配かけちゃいけない」って思って1人でなやんでる方がよっぽどつらいから。でもまだ全部のなやみ話せてるわけじゃないと思うけどね、ゆっくり話していったらいいからね。


ママ、パパと結婚してくれてありがとう。私たちを産んでくれてありがとう。ママには何回か話してるけど、本当にママ、友達みたいなんだよねー。ツッコミいっぱいしてくれるし、まゆちゃーんって呼んでるし、本当さいこう!!ママがいるから色んなことがんばれたよ、ありがとう。


ママはしらないかもだけど、いつも支えになってたよ。ほんとにありがとう。このノートをみたら絶対泣いてるとおもうけど(私だったら泣く)、このノートにはみんなのたましいがねじこんであるから安心して!このノートの絵とかをみて、さみしさまぎらわして!いつも応援してるよ

もう後が長くない… そう感じたマユミさんは、交換日記だけでは収まらない娘たちへの愛を、アルバムやフォトブックにして伝えました。


娘たちに一冊ずつ贈られたメッセージアルバム

それぞれが生まれる前の気持ちや、保育園、小学校、中学校、高校と、娘たちへのその時々の思いを綴っています。

例えば、「うまれてきてくれてありがとう」と題された長女へのメッセージには

赤ちゃん時代はいっつも笑ってて、天使というか菩薩みたいで、育児で悩んだことは一度もない!!


コミュ障のママが、ママ友いっぱいできたのもの、あなたのおかげ。ママの世界を広げてくれた恩人だよ!

ママにとっては神さまからの「キセキの贈り物」だから、絶対に絶対に自分を大事にして、幸せになってほしい!!


長女の6年後に生まれた次女には、

お腹の中にいるとき、よくママのお腹をけって、すごく元気だったから男の子かなあ?と思っていたら女の子でびっくりした(笑)

生まれてきた時も、手足をバタバタしていてやっぱり元気だった(笑)

といった、娘たちも知らない母の思い出や心のうちをぎっしりと詰め込んだ写真つきのアルバムが、長女と次女、それぞれに一冊ずつ送られました。


今も届く母からの“声”

母のメッセージは、今もなお娘たちに届いています。マユミさんは亡くなる前日まで、娘たちの誕生日や成人式といった節目のために何十通と手紙を書き溜めていました。そして2025年、二十歳の誕生日を迎えた長女には、こんなメッセージが届きました。

ハタチ〜。成人やん。成人式行くんかな?あ、それは18か。振袖とかパパにちゃんとしてもらいや。お酒も飲めるね。

「大人になってママと飲み会するのがめっちゃ楽しみ」と交換日記で綴っていた長女の夢は叶わないけれど、こうして今もすぐ近くにマユミさんがいるかのような温もりのある言葉を、娘たちは聞くことができています。



あれから2年… 娘から母への感謝 夫に託された言付け

マユミさんが亡くなって2年が経とうとするころ、長女は成人式の前撮りを行いました。撮影が終わると、長女から父にこんなメッセージが手渡されました。

今まで本当にありがとう。これからもよろしくお願いします。


記された宛名は「パパ ママ」。

娘たちは、たとえ目の前にいなくとも、マユミさんの存在をたしかに、しっかりと感じています。

そして夫のマコトさんには、生前、こんな言付けをしていたそうです。

もし、私が生きていたら受けられるはずだった幸せの全てを

娘たちにあげてください… 余ったら、あなたにもあげるから


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